午前中は、宮城のうたごえの総会があった。
午後からは、うたごえ春祭りがあった。
わげは、「まだ見ぬ星を」を歌った。
今回は、司会の担当を若星Z☆のメンバーで回していくという手法を採った。
1人だけに任せきりではなくて、みんなで回すことで、気づきがあった。
例えば私が個人的に感じたのは、一つの団体が終わった時にちょっとした感想を言うのだが、それがなかなかうまい具合に言えない。
アドリブ的なセンスも試される場面ではあるが、やはり人がやってるのを見るのと、自分がやるのとでは、言えなさ加減を痛感する度合いが違ってくる。
こういうことを積み重ねていくことが、司会がうまくなる一つのポイントだと思う。
今回はこのような機会を、メンバーで共有することができて、一人一人の対応力、コメント力の底上げになったかと思う。
バザールでござる。
さて、「とうほぐずん」にとっての忘れられないあの日について書いてみよう。そう明日は3・11である。
2011年の当時私は、山形市に住んでいた。
震災後、1週間目ぐらいだったろうか。比較的早く最低限のインフラが復旧した山形市でテレビを見ては、太平洋側の悲惨な状況に心を痛めつつ、それでも目の前の生活を淡々とおくるぐらいのことしかできなかったわけだ。
それでも、何かできないかっていうことをいろいろ考えたりして。仙台でちょっと支援してこようと思い立って、行けるかどうか不安もあったが、生協で米を10kgぐらい買って高速バスに乗って仙台へ行った(自家用車はガソリンがあまりなかったので)。
仙台ではそのような米も手に入らない状態でそれは役に立った。朝市ビルの周辺では開いてる店があれば何かの物資を求める人で行列ができていた。
朝市ビルの歌の練習場では、何人かのメンバーや団の人や、中学生が集っていて、そこは電気と水は出るようになっていてテレビなどで情報収集してる人もいた。
朝市保育園のシンクで米を研いだりしてご飯を炊き、おにぎりを作れるだけ作った。
それを避難所となっている東二番町小学校へ持っていく、というようなことをした。
やがて夜が近づいたので、東二番町小学校に泊まることにした。
朝市ビルからマットのようなものを持って小学校へ向かった。
メンバーで旭川(北海道)に帰る人がいたのでバス停まで送っていった。
そして、小学校で寝たわけだが、寒いので防寒着もそのままに、そして知らない人がたくさん周りに雑魚寝してる中で、寝れるはずもなく。
朝まで、目をつぶって横になっていただけのような感じだった。
私は、一泊して次の日には山形に戻ったが、こういう生活がずっと続くとなると過酷だなあと思ったものである。
まだ、情報も限られていて(被害の全貌はその後にだんだん分かってきた)、必要なものは日々変わっていくような混乱のさなかである。
やす
一本松公園(旭ヶ丘市民センターに早く着いたため、冒険した)